こんばんは、ツカマコです。
さて早速ですが先日のこと。
ある人との会話がひっかかりずっとその事が頭の中をぐ~るぐる
「う~~~ん。何なんだあれは?」
「あの人との会話が私に見せようとしているものは何?」
「何なのだ、この心の中のイライラは?」
と、自問自答・自己探求・自分とのコミュニケーションを図っていました。
しかぁ~し。 何かモヤモヤして見つけたつもりの解が解でない感じ。
その感じのまま夜になりベットに入って日課の日記を書き始めた時
あああ~~そうか
分かった
私、その人に対して怒りの感情が湧いてたんだ
思い返してみれば、かなり失礼な事を言われていたのです。
そしてそれについてムカッとしていたものの、その感情に「気付かぬふりをして」、その人とのやり取りが自分に何を見せてくれるか、という観点で探究をしようとしていたのです。
つまりそこにある感情を無きものとして扱い、いきなり次のステップに行こうとしていたということ。
コレこういった勉強をしている人が陥りがちな落とし穴です
人間ですから、喜怒哀楽、全ての感情は必ずあります。必ず湧きます。
いくらコミトレを深めたからといって、その感情がなくなるもんじゃない。
その感情はそこにあって良いのです。これ先日瀬戸口さんが言っていた「許可」のひとつですね。
ただ、その感情にいつまでも振り回されて機能的ではない自分をいつまで続けるか、いつそこから降りるか、ということ。
平地(フラットな自分)に降りるのが早いほど、機能的な行動も早く取りやすくなる。
その為にも、そこにある感情を無きものにせず、まずはあることを許可して味わい尽くし、そしてそこから降りる観点を探ってみる。
怒れるものは怒れるんです。人間ですもの
ただ、早く戻ってくるようにするだけ。
「ありゃ確かに腹立つで 」と一通り独りごちて
そして色々整理してこの出来事全体が何を見せてくれるかの観点を用い
はじめて全景が見えるようなるんですね
う~~ん、スッキリ
そして続く
/tkd